美のありか

ー美のありかを語るー

現代人にとっての眞の意味での幸せを目指す為の脱近代としての文化のあり方Ⅰ

 

さて本年度から私はEテレを良く視て来て居る。

 

昨年度までは余りTVを視る時間も無かったのだが今年からEテレを屡視るやうになった。

何故民放を視ないのかと云うとズバリ其れはアノウルサイCMを視させられるのに我慢がならぬからだ。

 

とは言え民放をまるで視ぬ訳では無く例のポツンと一軒家だの、また所謂日本通の外國人が日本的な価値に生きる様を紹介する番組などは結構好きで屡視て来ても居る。

 

だがさうしたグローバルな価値の交流が果たして何処まで続くかと云うことが次第次第に分からなくなっても来た。

グローバルな価値の交流は文明乃至は社會が元気なうちは良いがイザ其れが限定を受ける段になれば實際どうなるものやら分かりはしないものだ。

 

そんな中でEテレを屡視つつ気付いたことがあり一つには其れが文化藝術の持つ普遍的な価値のことである。

Eテレにはまさにそんな藝術を取り上げた番組があり其処で繪画だのデザインだの音樂だのに癒され其れがこんなコロナ禍にてお先が眞っ暗なことを述べるしか無いことであらうワイドショーなどを視て居るよりは余程に為になるのであった。

 

壱箇月程前だったか、其のEテレの番組で以下の番組を視其処に強く示唆を受けた。

 

アーキテクツ プレイス 北欧発 建築家の幸せな住まい

 

まだシリーズの全部は放送されて居ないのだが(4)までは視特に(2)と(4)に強くインスパイアされた訳だ。

 

故に其の(2)と(4)に就き述べてみたい。

 

 

さて北欧スウェーデンと云う國は社会保障が充實し所謂先進國としての高い見識のある國である。

 

民主主義の成熟性が高く評価されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、ノルウェーアイスランドに次ぐ世界3位で「完全な民主主義」に分類されている(2019年度)[5]。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングノルウェーフィンランドに次ぐ世界3位である(2020年度)[6]世界幸福地図では世界178か国で第7位(2006年)、世界価値観調査での幸福度(Happiness)はアイスランドデンマークに次いで第3位(2005年)であった[7]。2019年、米コンサルティング会社が実施した調査で、スウェーデンは世界で最も評判の良い国に選出された[8]。ースウェーデンより

 

立憲君主制を採る國であるのに何故其のやうに民主制としての意識が抜きん出て居るのだらう。

まさに其の辺りの事情には疎いのだけれど、所謂國家及び國民の「意識が高い」國だと云うこと位は私も以前から見聞きし知っては居た。

 

また近年ではグレタ・トゥーンベリ氏の活躍が記憶に新しいところであらう。

 

尚私は其のグレタさんの支持者である。

故に社會批判ブログの方でも彼女の活動を肯定的に捉え且つ其れを応援して来て居たつもりである。

 

私は基本的に現代社會は変わらねばならぬとさうかねてより考えて来て居た。

何故さう考えるのかと言えば何より其の現代社會には所謂持続可能性が欠けて居るからである。

 

 

ちなみに私は廿代の頃塾にて小中学生に社会科を教えて居たことがあった。

当時より私には現代文明其れ自体が何かとてつもない危機を内包するものとして捉えられて居た。

 

現代文明の継続は思えば其の四拾年前から至極危ないものであった。

 

だが当時は私にも明確な危機感などまるで無かったのである。

其処には要するに漠然とした危機意識のやうなものがあるだけで、故にたとえば五拾年、或は百年で現代文明は崩壊する、などとは實はまるで思っては居なかったのである。

 

其の漠然とした危機感がまさに實感となったのが21世紀を迎えてからのことだった。

 

そんなさ中宗教間の対立や経済的打撃などが引き起こされまさに世界は不安定化して行くのであった。

当時私は梅原 猛先生の哲學を學んで居る最中であり、よってか世界や文明を巨視的に捉えることが得意で其処で文明の行く末に就き考えたりして居たものだった。

 

兎に角さうした意味でも先進國を中心とする現代社會の流れは何処かで反省を為し社會の仕組み其のものを変えて行くべきもののやうに感ぜられて居たものだった。

ものだったのでは無く無論のこと今でも現代社會は自分自身で何とかせねばならぬ筈なのだが現實には決まって何かと足枷ー社會的な制約ーが多く変わることなどは出来ぬものと相場は決まって居る。

 

 

でも其の中で所謂先端的な思想を披歴して居ることだらうスウェーデンと云う國から學ぶことは多々あるのではないか。

特にこと近代的精神と云う意味ではむしろ後進性ー保守性か?ーを有して居ると目される日本國ではスウェーデンから學ぶべきことが其れこそ山のやうにあることだらう筈だ。

 

スウェーデンはまた環境に対する意識が非常に高くある國家である。

故にこそまたグレタさんのやうな文明への批判の試みが市民権を得て実行に移せた由縁でもまたあるのだらう。

 

 

対して🗾と云う國の環境に対する意識は戦後はむしろ低かったと申すべきなのであらう。

其れはむしろ戦後の高度経済成長により自然とさうなって行ったものだと思われる。

 

一例を示せば我我六拾代前半の世代はたとえ都會の人であれ昔の都市にあった自然の様をしかと覚えて居るものなのだー

 

無論のこと私も其の自然の様を今でも克明に思い返すことが出来る。

かって我我の周りには自然があり1970年頃までは其の自然の中で遊び且つ學ぶことが可能だった。

 

いや1980年位まではまだまだ自然は身近に残って居たものだった。

 

例えば色んな生き物が出る池があった。

またカブトムシが出る林があった。

 

さらにバッタやコオロギが出る原っぱがあった。

其れに畑の横には必ずあった肥溜めなどが何故か頻りと思い出される。

 

 

其れが今や全て無くなって仕舞った。

いや其れでも拾年位前までは我が家の庭へ蝶などが良く飛んで来ても居たものだった。

 

だが今や其の蝶の数が極端に減った。

尤も其の前に蝦蟇や🐍やらが家の庭からは消え去って行った。

 

 

都市に残された僅かな生命の連鎖が何故かさうして断ち切られて行くのである。

我我は何か勘違いをつまりは心得違いをして居るのではないか?

 

さうした認識がもう随分前より私にはあった。

 

 

いつしか我我は其の経済的な利益と云う怪物ー其れも抽象的に価値規定される怪物ーに踊らされ自らの価値観を曇らせて来て居るのではないか。

其のやうな認識が常に私にはあり其の認識から解き放たれることは以降結局無かったのである。

 

文明の持続不可能性、まさに其のことに気付かせて呉れたのは、中学時代の社会科の恩師である担任の先生がそっと私に教えて呉れたローマクラブの報告書であった。

 

当時私は文學書ばかりを読み眞面目に勉強をして居た訳では無かったのだが其の教師から社会科の自由課題を与えられ其の折に私が纏め上げたのが世界の人口爆発と食糧危機に関するレポートであった。

其のレポートが最大限に評価されたことから私は其のI先生から特別に扱われ其のローマクラブの報告書を読むやうに勧められたのである。

 

後に私が塾にて社会科を教えることになったこともまさに其のことが契機となった訳だ。

生物種の多様性が減じて行く其の流れこそが廿世紀以降にまさに引き起こされた人類と云う種の爆発的繁栄に比例する形にて引き起こされて居ることは明らかだ。

 

だが其れでは人間以外の生命の生存に大きく関わる影響が出て仕舞う訳だ。

平たく言えばまさに其れが種の絶滅である。

 

 

三十代の頃私は其の絶滅に関する本を読み漁って居た。

だが文系の我に絶滅の理論を解する能力は元より無い。

 

尤も高校生の頃生物學だの地學だのは好きだったのだが其処に数式だの化学式だのが出て来ればもはやお手上げである。

 

其れでも文系向けの啓蒙書のやうなものをさうして読み続けて居たのだった。

其の絶滅は何も目新しいことでは無くむしろ太古の昔より引き起こされて居る生物としての種が辿るひとつの運命のやうなものである。

 

然し其の自然の内なる淘汰の話と文明の圧迫による生物種の絶滅の話とはまた別ものである。

であるとすれば、スウェーデンの人々が環境に対する意識が高いとされるのはまさに其の文明の圧迫による生物種の絶滅が何より危険であることを知って居るからなのであらう。

 

 

でも島國でもって世界有数の豊かな自然を持つ日本人の環境に対する意識がむしろ低い位置にあるのは一体全体どんなカラクリによるものなのだらう。

 

結局私は其の理由を近代化を急ぐ余りにむしろ一番大事な心としての価値のあり方を犠牲にし突き進んで来た日本の社會が奉じた価値観即ち思想の誤りであることに気付き愕然とした。

第一日本の里山にある森はほとんどが有用林である杉の植林がなされて居る。

 

ちなみに小学生の頃カブスカウトに居た私は少年の頃より近場の森や低山に入ることが多かった。

然し大人になるとモノマニアとなり逆に百貨店や骨董祭巡りをすることこそが最大の愉しみとなって行く。

 

だから暫くは自然の大事さのことなどスッカリ忘れて居たのである。

だが三十歳を過ぎた辺りから再度アウトドアーへと意識を向けソロトレッキングを行う為に屡山奥へと出かけるやうになった。

 

其の折に初めて分かったことがあり、其れは自然とは其れ自体が完璧な調和を保つひとつの系であり其処に手を加えるべきものでは無いと云う直感のことだ。

哲學的思考が得意な私はさうして山や森を歩きながら様々な思いを巡らせる。

 

 

人間存在の實存的意義や社會の意味などに就き様々に考える。

皮肉なことにさうして山や森を歩きながら自然のことを考えるのでは無くまさに其の人間のことばかりを考え込んで居た訳だった。

 

つまるところ問題は自然の側にあるのでは無くむしろ人間の側にこそしかとある。

 

だから私は自然を外側から眺めてなどは居ない。

むしろ自然は私の内側に拡がるもので、其処にこそ居を定め逆に文明を外側から眺めつつかうして其れを論じて居るのである。