美のありか

ー美のありかを語るー

現代人にとっての眞の意味での幸せを目指す為の脱近代としての文化のあり方Ⅱ

さてでは其のアーキテクツプレイスと云う番組の話へと戻らう。

 


此の番組への全体としての感想は、

1.脱近代としての文化のあり方を指し示すもの

2.住環境と自然との距離感の近さ

 


と云う此の弐点である。

 


1.に就いて

 


脱近代は幾ら観念的に構築したにせよ其れは成らないことだらう。

何故なら現代社會其のものが理想としての社會体制の構築などにはまるで及ばず相変らず原始的な体制ー立憲君主制然り、資本主義経済体制然りーに寄り掛かり社會全体の価値を構築すると云う愚をおかして来て居るからだ。

 


其処からしても社會はむしろ文化的に改変されて行くべきものなのやもしれぬ。

尚社會と云うものは基本的に自ら変わろうとは決してせぬものだ。

 


古代より文明の崩壊は新たな時代又は環境に文明の価値が合わなくなり其れでもって仕方無く滅びて行くものと相場が決まって居る訳だ。

其処からも社會は個人以上にむしろ変われぬものなのである。

 

 

 

だが文化に限り柔軟性もまた他方ではあるのかもしれない。

他方でと云うのは、文化もまた頑なに自己主張を貫く点ではまるで変わりたくは無いものでもあるからなのだ。

 


ですが戦後日本の文化は確かに変わったのだし其れ以前に東京や横浜などは近代化により江戸時代とはまるで別物となり無論のこと文化的にもまた大きく移り変わって来た訳だった。

また京都なども伝統文化と新しい文化の融合と云う事をむしろ積極的に推し進めて来て居るではないか。

 


其の辺りからしても社會は文化的に変わることが出来るのではないか。

 


即ち其の脱近代としての価値観への移行とはむしろ文化こそが主導すべきものなのではなからうか。

 

 

 

2.に就いて

 


アーキテクツプレイスの4話まで視て、まず気付かされたことが一つあり其れが自然との距離感が小さい、つまりはむしろ自然へと接近する住環境のあり方を北欧スウェーデンの建築家達が目指して居る部分である。

また其れが徹底して居る様に正直驚かされた。

 


ちなみに此の番組中に登場する建築は建築家自身の為の邸宅である。

 


つまるところ建築家としての作品ではあるのだけれど其処には社會的な評価への意識などは薄く要するに自分等にとって快適にー幸せーに時間を過ごせる家をこそ彼等は建てて来て居る訳だ。

其の「幸せな家」に共通して感じ取れる部分がありまさに其処が自然との距離が程近いと云うことなのだった。

 


たとえば都会の集合住宅であれば屋上に土を入れ其処に自然の様を再現する。

其れも本気でやって居るのでやがて昆虫なども訪れるやうになりやがては其処に都市としての生態系が形作られる。

 


また郊外に居を構えるのであれば自然との垣根を極力取り払いつまりは自然との境界線が曖昧な家をあえて建てる。

 


たとえば一室に巨大な仏蘭西窓を設え其れを解放すると自然と其の侭に自然と繋がって仕舞う部屋を造る。

また家の周りに木々の写眞をプリントした巨大なシートを張り巡らし見たところでは何処に家があるのやら分からぬやうな風にもして仕舞う。

 


前者がヨナス・リンドバル氏の手になるもので後者はハンス・ムールマン氏の手になる建築だ。

ー其の自然との接点の上では👨の建築家の場合の方がより其れを徹底して居り其処が面白い部分であるー

 

 

 


リンドバル氏の邸宅はむしろ近代的な直線に基づき構成されるが其れはまさに無駄を削ぎ落とした理性的洗練としての極を指し示すものだ。(弐話)

其のシンプルな直線は教会の質素な聖なる空間の様を手本として居るのだそうだ。

 


リンドバル氏が奉ずるミニマリズムは明らかに脱近代の要素を徹底させて居るものでもあることだらう。

 


氏は曰く、物を減らす、家具は必要最小限なものとして置くこと。

また人は皆環境により大きく影響を受ける。

 


よって人間が創り出す環境ー住環境ーこそが重要である。

要らぬ物を減らし、さうして兎に角室内と外部との境界を極力無くすやうにすべき。

 

 

 

ハンス・ムールマン氏の手による邸宅は其処まで物を減らして居る訳では無いが逆に自然との境界を取り払うと云う意味ではむしろこちらの方が徹底して居るやうにも思われた。

 


彼は自然をこよなく愛し所謂環境に優しいことを地で行く建築家である。

土地の歴史を尊重し其の歴史を乱さぬことにむしろ建築作品としての主眼を置いて居られるやうだ。

 


其の過去の堆積物としての歴史を尊重したり物を減らしたり自然と近しい距離に人間の加工物としての家を建てると云うことこそがまさに文化的な思考なのではないかと思う。

 


資本主義経済体制が進むと兎に角要らぬ物が自然と増えるものだ。

また進歩思想が過ぎれば土地の記憶、其の歴史的意義などにはまるで思いが至らなくもならう。

 


だが其のやうな思考法であるからこそ脱近代はむしろ永遠にならぬこととなる。

脱近代とはむしろ進歩に拘泥することでは無く過去ー歴史ーを振り返り自然を見詰めることでこそ為し得ることなのではないか。

 

 

 

生物多様性が次第に失われ其処に文明の持続可能性が何より危惧されるに至った昨今の現代社會。

 


然し其の現代社會を快適に生きる為に造る住宅の窓が皆小さくなって来ても居るのである。

其れは出来るだけ冷暖房費を節約する家だとでも言うのであろうか?ー第一夏はもはやエアコン無しではそんな家には住めぬことでせうが果たして其れでも良いのだらうか?ー

 


だからそも其の設計思想の部分に人間の快適性に対する配慮が欠けて居る訳だ。

 

 

 

ちなみに我が家の母屋の方は昭和初期の古い家にて縁側があり其処での全面がガラス戸となって居る。

だから常に庭が見えガラス戸を解放し庭に打ち水をすれば夏の夕方であればエアコンが要らぬ程だ。

 


他方でボロ家となりつつもあり其の維持管理が大変な訳であるが個人的には其の窓の小さい今風の家にはまるで住みたくは無くたとえボロ家であっても庭の木々と通じて居る我が家にずっと住み続けて居たいとさうも思う。

 


先日其の母屋の居室に居た年老いた母が珍しくEテレを視て居た。

何を視て居るのかと思い居室を除くと何と其のアーキテクツプレイスのムールマン氏の巻(四話)をである。

 


で、其の感想を尋ねると其のほとんどが私と同じやうなものであった。

 


まさに其れが何だか我が家と似ているね、と云うことだった訳だ。

 


其の北欧の高名な建築家達が今目指して居る最先端での価値と古い日本家屋の価値が同じだと云うことがまさに其処に指し示されて居る訳だ。

かうして常に目に緑が映り込む家、ガラス戸の面積が大きく取られ日光に溢れた家、またさらに其れを開け放せば自然の延長線上となることだらう人間ー生物ーにとっての快適な住まいとしての形。

 

 

 

なんだ、理想はむしろ過去にこそあったのだな。其の日本の文化としての過去にこそ其れはあったのだった。

 


此処からしても今現代文明が目指す価値が人間の快適性に基づく為のものであるとは考えにくいことだらう。

住環境にせよまたまた労働に於ける環境にせよ其れが人間の快適性に基づく為のものであるとは考えにくいことだらう。

 


まさに其の部分に気付き人間の快適性を損なうこと無く文明を持続させて行く為にはまず意識的な変革を為さねばならぬことだらう。

だが先に述べた如くに社會としての意識、其の価値観を変革して行くことは現實的に言ってもはや至難の技なのだ。

 


ゆえにこそ個としての意識的変革を其処に目指す他は無い訳だ。

其の意識的変革を促すものこそがかうして建築などをも含めたところでのー藝術的なー感性の発露としての文化の力であるとさう述べて居るのである。