田根剛氏による目覚めた人間の為の建築ーサステイナブルな文明のあり方を模索する試みⅡー
田根 剛×齊藤太一 大地とつながるキッチン。 お手本は縄文の台所です。
其の番組中で最も驚いたのがこちらの邸宅でした。
見た感じでは非常に洗練された空間でまさにお洒落なのですが、實は脱近代的な要素も其処には多分に盛り込まれて居る。
即ち土壁だのガラスで囲んだ温室のやうな造りだの古臭い要素がふんだんに盛り込まれて居ます。
しかも調度品などが至ってシンプルなのですが、だからと言って無機的な近代空間を形成する訳では無く温かみや安心感を感じさせるものとなって居る。
私はまさに此の家こそが現代に望み得る最高の個としての空間なのだとさう素直に思う。
實はTV番組の中ではもっと庭の木立の様子が強調し映されて居てまるで林の中に建つ別荘の如き景観を呈して居りました。
で、此の邸宅はそんなに高価な素材を使って居る訳では無いと云うのに住空間として高いレヴェルでの快適性を實現して居るかのやうです。
ですが世界的な建築家である田根氏の作品であれば無論のこと其の設計費などはお高いことでせう。
なのだが、我我は其処から學び得る筈だとさう思うのです。
こんな家には勿論誰もが住めない訳ですが此処に示されたところでの人間の生活に対する快適性に関する要素としての本質を我我個は取り入れることが可能な筈だ。
で、さらに極論を言えば其処は洋風だらうが和風だらうがまるで関係無い訳だ。
洋風だらうが和風だらうが人間を快適に住まわせる要素とはまさに自然との共生関係にこそある。
逆に言うと田舎の一軒家のことなどが何故か近年はTV番組化され大人気なやうですがまさに其れは田舎の一軒家の方が都会でのマンション暮らしよりもずっと快適に暮らせると云った事實からなのでしょう。
ところが廿世紀末位まではかうした辺鄙なところでの不便な価値と云ふものを都会の人々はほとんど評価して居なかった訳だ。
尤も芸能人などでも一部の文明のあり方に対する見識の高い人々が早々と田舎へと移住して居たりすることはあった。
でも勘の悪い人々には何でワザワザ都落ちするのかと云った其の価値観の違いから来る無理解があった訳です。
其の都が良いと云うのはまさに文明が良いと云うことで、其の価値観に立てばTOKYOやらNEW YORKやらこそが最高で奥三河の一軒家などは如何にもダサくなって仕舞う。
ですが逆に都会の人は現代社会の抱える矛盾の酷さにやられ都会の価値観こそがむしろ最低に感じられるが故に其処に限りむしろ田舎の一軒家こそが理想郷となるのだらう。
なので其れは最終的に価値観の違いの問題となるのです。
しかも美意識としてのあり方の問題なのでもある。
其の美意識さえあれば田舎でも高度な文化的生活はおそらく可能でせう。
いやむしろ藝術家は静かな環境をこそ好むものです。
藝術家にとっては内面での出来事が最も大事な訳ですので其のウルサイ都会を離れ沈思黙考することが可能な環境へと是非移住したくもなる訳です。
なんですが其処まで考えたり感じたりはして居ない大衆に取り其れが必要かと申しますとむしろ其の不便さが合わないことだらうとさうも思うのです。
さて其の都会的洗練に就ひてですが其れは結局理性の力によるものなのかもしれない。
しかしながらそも其の洗練とダサさの境界と云ふものが良く分からぬ訳だ。
但し田舎のものでも本物の家は至極立派な家で其処は洗練とは違うのかもしれぬが其処に揺るぎない伝統の価値、本物の価値を感じさせられるものです。
たとへば私の弟の嫁ー私より三歳上ーの長野の家などは文化財指定されて居るまさにそんな立派な家です。
其処には本物の素材ー主に木曾檜ーがふんだんに使われて居り其の柱の太さ、見事さにはいつもながら圧倒されて仕舞う。
其の都会的洗練も如何にも馬脚を露すのが早いと申しますか80年代までは持て囃されたやうな直線的なビルだの何だのは今は流行らなくなったようだが其れでも都会にはいまだにコンクリ製の直線的造形物などが多い訳だ。
其の幾何学的な造形がおそらくは有機体としての人間の素の姿には元々合わぬものなので次第に其れが疎んじられやがては皆が山奥の一軒家を再発見して行くことでせう。
幾何学的な造形であれ何であれ其れを有機的に再編成し少しでも人間の生のあり方に適合させることこそが大事な訳で、彼田根氏の作品にはまさにそんな意味での有機的複合の努力の痕ー理性的なーが何より感じられるので其の空間が生体にとっての快適性を生み出すことかと思われる。
さうしてまさに其の有機的複合の鍵を握るものが植物との共生です。
田根氏の建築作品には其の植物との共生の思想が何より垣間見える訳だ。
また植物だけでは無く土と云う地球の表面との共生を建築の中に盛り込む点こそがまさにユニークな視点です。
皆様御存じのやうに古い日本の家屋には土壁がありまた我が家などもまたさうですが基本的に木と紙とでもって出来た家です。
此の日本家屋は隙間が多く冬はとても寒いのですが高温多湿となる日本の夏にはむしろ向いて居るものです。
其の日本家屋には縁側と云ふものもまた御座りまして夏の夕方にソコに寝っ転がって居りますと庭から涼しい風など吹いて来其の侭で快適ですのでかってはエアコンなど要らなかったのです。
なのですが近代化から地球温暖化が引き起こされ其れでもってさうしたかっての自然的な生活も次第に難しくなって仕舞いました。
尚家には家を新築する予定などはありませんが閑静な住宅街である我が家の辺りでは代替わりにて家を新築される方がまた多い訳です。
すると其の新しく出来た家が皆おかしいのです。
良く見ますと皆窓が酷く小さく要するに外部との物理的接触を遮断するかのやうな家がほとんどなのです。ーまさに家の内部だけで完結するやうな家ー
私はまさに其れが文明の価値観としての病気だとさう思うのでたとえどんなに綺麗な家でもそんな家に住む気になどサラサラなれぬ。
兎に角文明が自然との交流を遮断するかのやうな考へ方こそが現代社會の陥った深い病の部分であることだけは間違いありません。
で、先に申しましたやうに其れは西洋だからまた東洋だからと云うことではありません。
進歩的で合理主義の筈の米國などでも意外に自然と共生し暮らして居るケースなどが屡見受けられます。
より保守的であらう筈の英國などは或はもっともっと自然との関係を大事に捉えて居るのかもしれません。
日本の田舎でも勿論其の自然を大事にして来て居る筈です。
ですが何故か日本の都会、其れも大都会のみが自然に対し極めて冷淡なのです。
まさに其れが戦後民主主義に於ける経済成長を目指して来たことの弊害で無くて何なのでせう?
「記憶は現在を動かし、未来をつくる」田根 剛「未来の記憶」より
田根氏はさうして常に記憶を呼び覚ます訳だ。
其の記憶とは何より時間の経過を表すものでせう。
其れを意識ー理性ーとして誘導し物理的に組み上げる訳です。
未来への選択としてはおそらく其れが最善の結果を齎す筈です。
此処からしても人間はさうして文明は一度近現代の歴史を逆転させてみるべきなのやもしれません。
人間の歴史とは實は近現代のみに偏ったものでは無く中世や弥生時代や縄文時代、また石器の時代をも内包するものです。
故に未来をつくるのはテクノロジーの力だけでは成し遂げられません。
テクノロジーは基本的に数的還元された価値観のことですので、其処にはほぼ有機体としての人間の快適性が考慮されて居ないことでせう。
だからAIをつくることがむしろ有機体としての人間の快適性を損なって行くことでせう。
まさに其れは🚗や✈や🏭やらが悪いものを撒き散らし地球を汚すことで人間の快適性を損なって行ったこととまるで同じことです。
ですからみんなが信じて居るもの、闘おうとして居るものの相手がそも違うのです。
みんなは文明に疑いを抱き逆に其れと闘わねばならぬのです。
所謂ポジティヴな未来、希望に満ちた未来は、其の文明を盲目的に信じ切って居る部分からは決して生じ得ぬことだらう。
其ればかりか現状から鑑みるに夢と希望に満ちた未来などもはや何処にも存在して居ない訳だ。
けれどももしも文明が其の未来に今を繋げたいと云うのであれば逆に今を過去にこそ繋げてみるべきだらう。
むしろ過去こそがそんな希望としての記憶の宝庫なのだからこそ。
ー田根:また、当時は世界的に、「スター建築家」という建築家像が流行った時代だったんですね。スター建築家が世界のどこにでも現れ、コンペを獲り、個性の力でグローバルに活躍する。それに対して、僕らの世代は同じ道に向かうのか、違う未来を作るべきかということを、ヨーロッパで仲間とよく話していました。そんなとき、建築を作る原理として「記憶」という言葉が、僕のなかで強くなっていったんです。
田根:モダニズム建築には、もともと、宗教や政治から自由に建築を作ろうとする創造的な意義がありました。しかし、それが幸か不幸か経済と結びつき、ガラスとコンクリートによって誰にでもできる仕組みになった。その結果、とくに大都市はどこも高層化し、抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったんです。そんな時代の次に、僕たちは忘れ去られたものを発掘することで、何か異なる意味を探りたいと考えてきました。
一方で、古代まで遡って考えるなら、建築の基本は「場所の記憶を作る」ことだと思っています。ある場所に記憶を付与して、2つの地点に「ここ」と「そこ」という違いを作ること。
そこで重要なのは、記憶というと人の記憶に寄りがちですが、僕が言うのは、まさしく場所が持つ記憶のことなんです。人は記憶を忘れてしまうし、誰とも共有せずに亡くなることもある。でも、場所には人の記憶を超えたものが刻まれているから、それを掘り起こして未来につなげたいと思うようになりました。
田根:じつは「未来」という言葉をなかなか使えずにいたんです。だけど、エストニアにミュージアムができたことで、本当に土地の人々の人生が変わり、街が明るく変わっていくのを見ました。建築は、完成した瞬間に未来に向かっていくんだということを、とても強く感じることができたんです。
その経験を経て、「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかと。今回の『未来の記憶 Archaeology of the Future』というタイトルには、そんな思いを込めました。ー田根剛の頭の中はどうなってる? 古代と未来をつなぐ建築家に訊くより
ー抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったー
まさに私が批判して居る点が其の現代文明に於ける抽象性のことです。
主に都市に於いて抽象的な空間が増えることで、またさらに抽象的な概念が増えるー増殖するーことで人間の観念が本来持って居る筈の具象性が圧迫され且つ破壊されて行く訳だ。
より具体的に申せば今ゲームやスマフォの蔓延にて今子供の近視が進みもう大変なこととなって居る訳です。
其処にさらに批判を加えますれば今の教師や母親達は一体全体何をやって居るのでせうか?
何でまた子供達が小型のPCを持ち歩きネットやらゲームやらをする必要があるのだらう。
ー「場所の記憶を作る」ー
壱種難しい論題ではありませうが、考えてみるとポツンと一軒家の其の一軒家の価値と云ふこともまた確かに其の場所の記憶なんです。
だから場所の記憶と云うことは人間の持つ抽象的な思考の癖を離れて具象的な場に立ち戻ると云うことなのではないか。
ー「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかー
確かに近代的な原理とは進歩により創造と破壊を繰り返しつつ歩んで行く其のパターンの固定化でもまたある訳です。
創造と破壊なのであれば其れは本来ならば神のみが行うべきことである訳ですが、近現代はまさに其の立場を人間が入れ替はり本来ならば神の御業であることをあえて人間がやって行って仕舞う訳だ。
でも其れは嘘の御業でありあくまで人為での所業ですので何処かにポッカリと開いた穴、欠点が存して居りまさに其処がデカくなることでいつしか文明の全てが其処へと吸い込まれて行かざるを得なくもならう。
其の如何にもヤバい🐜地獄のやうな世界ー人間の認識にて自ら選んだ世界ーをギリギリの綱渡りでもって此れ迄やって参りましたが2020年を迎えると同時にドーンと全てが其の穴へと落ちたのでした。
で現在はまさに其の穴の中でもがき続けて居ると云ったところなのだらう。
其のギリギリの綱渡りとはそも危険なものなのでやらぬ方が良ひ訳ですがあえて其れをやり今はかうして穴の中でもがき続ける他は無い訳です。
其れ即ち🐜地獄のやうなもの、嗚呼まるで人間地獄、文明地獄のやうなものに捉えられたのだとも申せませう。
ー「記憶と未来を一体化する」ー
近代的原理はたとえばニュートン力学や天動説を否定した上で相対性理論や量子力学、また地動説を打ち立て其れを奉ずることにて新しい人間の考えのみに生きやうとします。
なのですが、實は過去のものが悪いと云ふ証拠など何処にも御座りません。
逆に言うと新しい人間の考えにのみ傾くことのリスクはまさに計り知れぬものがあると云うことでもある。
進歩には必ずや其の二面があり、まさに其れが人間が表面的に便益を享受することの裏腹に地球を崩壊に至らしめて仕舞う虞さえもがあると云うことだ。
故にむしろ記憶を未来へと取り入れた方が文明のリスク管理はやり易くなるのです。
たとへば地球温暖化の大問題であるにせよ二酸化炭素をドンドン出しつつ現代文明を継続させて行くよりは原始的要素を取り入れた生活を営むことで生としての循環や自然との共生を目指して行くことが初めて可能となることだらう。
また其の事は結局エネルギー管理の問題にも絡んで参りませう。
其の過去を取り入れたローリスク型の居住空間を構築することでより少ないエネルギー消費にて人類の営為が新たに開始される筈です。
問題は成長を前提とする資本主義が其のモデルに適合せぬことですがさうであるならむしろ資本主義を放棄して行くべきなのではありますまいか。
資本主義など放棄し原始共産制だの無政府主義だの色んな社會のあり方が其処に考えられるではありませんか。
要するに人間がグローバルに活躍する必要などもはや何処にも御座りません。
さうした幻想としての抽象的価値は具象的限定としてのコロナ禍がすでに葬り去って居ることだらう。
其の人間にとっての新たなる住環境と云うのは庶民にとっても分かり易い具体的な領域だと思われます。
思想だの何だのを抜きにしても兎に角分かり易いまさに具象的な事例のことです。
ですがまさに其の住環境こそがおかしくなりつつあるのではなひか?
其処が今私には懸念される部分なのです。
何故なら新たな住宅はまさに合理的に設計され自然との関わりを断って行くかのやうだ。
自然との関わりを極力大事にして行く為には近代的な価値に対し少なくとも懐疑的な姿勢を貫けるやうでなくてはならない。
ですが庶民にとり其れがもし難しいのであれば何故田根氏の創られた建築物が快適さうに見えるのかと個として考えさらに其れの眞似をしてみれば良いのです。
たとえば植物を自分の部屋に入れるなどしてみるだけで部屋の雰囲気はまるで変わるものです。
私の場合は竹を入れていますね、其れも育ち過ぎて隣の家にまでかかって仕舞った黑竹を切り壱本其の侭に入れて居ます。
其の竹は枯れて仕舞ひましたが七夕の如くに色々と飾りつけなどが出来ますのでこれから色々と飾り付けて行こうかとも思って居ます。
尚私は筆記具のコレクターでもあるのですが、庭の竹ー様々な種類のーを軸に使いDip Penを作ったりも致します。
他にも石などは部屋に沢山置ひてありますので無論のことながら其れ等が一番綺麗です。
石は枯れもせず飯も食わずで人間が生きてる間にはほとんど変化しないものですのであくまで装飾品としては理想的なものですし何よりも其れ等は自然物なので眺めて居ることだけで癒されるものです。
此の自然物があると云うだけで人間にとっての居心地の良い住空間が形作られていくのです。
かうして人間は常に自然を大事にしつつ生きるべきです。
其れも居住スペースの中に意図的に自然を取り込むことでこそ眞の意味での癒しの空間が形作られるのではなからうか。
2021-01-28