美のありか

ー美のありかを語るー

現代人にとっての眞の意味での幸せを目指す為の脱近代としての文化のあり方Ⅱ

さてでは其のアーキテクツプレイスと云う番組の話へと戻らう。

 


此の番組への全体としての感想は、

1.脱近代としての文化のあり方を指し示すもの

2.住環境と自然との距離感の近さ

 


と云う此の弐点である。

 


1.に就いて

 


脱近代は幾ら観念的に構築したにせよ其れは成らないことだらう。

何故なら現代社會其のものが理想としての社會体制の構築などにはまるで及ばず相変らず原始的な体制ー立憲君主制然り、資本主義経済体制然りーに寄り掛かり社會全体の価値を構築すると云う愚をおかして来て居るからだ。

 


其処からしても社會はむしろ文化的に改変されて行くべきものなのやもしれぬ。

尚社會と云うものは基本的に自ら変わろうとは決してせぬものだ。

 


古代より文明の崩壊は新たな時代又は環境に文明の価値が合わなくなり其れでもって仕方無く滅びて行くものと相場が決まって居る訳だ。

其処からも社會は個人以上にむしろ変われぬものなのである。

 

 

 

だが文化に限り柔軟性もまた他方ではあるのかもしれない。

他方でと云うのは、文化もまた頑なに自己主張を貫く点ではまるで変わりたくは無いものでもあるからなのだ。

 


ですが戦後日本の文化は確かに変わったのだし其れ以前に東京や横浜などは近代化により江戸時代とはまるで別物となり無論のこと文化的にもまた大きく移り変わって来た訳だった。

また京都なども伝統文化と新しい文化の融合と云う事をむしろ積極的に推し進めて来て居るではないか。

 


其の辺りからしても社會は文化的に変わることが出来るのではないか。

 


即ち其の脱近代としての価値観への移行とはむしろ文化こそが主導すべきものなのではなからうか。

 

 

 

2.に就いて

 


アーキテクツプレイスの4話まで視て、まず気付かされたことが一つあり其れが自然との距離感が小さい、つまりはむしろ自然へと接近する住環境のあり方を北欧スウェーデンの建築家達が目指して居る部分である。

また其れが徹底して居る様に正直驚かされた。

 


ちなみに此の番組中に登場する建築は建築家自身の為の邸宅である。

 


つまるところ建築家としての作品ではあるのだけれど其処には社會的な評価への意識などは薄く要するに自分等にとって快適にー幸せーに時間を過ごせる家をこそ彼等は建てて来て居る訳だ。

其の「幸せな家」に共通して感じ取れる部分がありまさに其処が自然との距離が程近いと云うことなのだった。

 


たとえば都会の集合住宅であれば屋上に土を入れ其処に自然の様を再現する。

其れも本気でやって居るのでやがて昆虫なども訪れるやうになりやがては其処に都市としての生態系が形作られる。

 


また郊外に居を構えるのであれば自然との垣根を極力取り払いつまりは自然との境界線が曖昧な家をあえて建てる。

 


たとえば一室に巨大な仏蘭西窓を設え其れを解放すると自然と其の侭に自然と繋がって仕舞う部屋を造る。

また家の周りに木々の写眞をプリントした巨大なシートを張り巡らし見たところでは何処に家があるのやら分からぬやうな風にもして仕舞う。

 


前者がヨナス・リンドバル氏の手になるもので後者はハンス・ムールマン氏の手になる建築だ。

ー其の自然との接点の上では👨の建築家の場合の方がより其れを徹底して居り其処が面白い部分であるー

 

 

 


リンドバル氏の邸宅はむしろ近代的な直線に基づき構成されるが其れはまさに無駄を削ぎ落とした理性的洗練としての極を指し示すものだ。(弐話)

其のシンプルな直線は教会の質素な聖なる空間の様を手本として居るのだそうだ。

 


リンドバル氏が奉ずるミニマリズムは明らかに脱近代の要素を徹底させて居るものでもあることだらう。

 


氏は曰く、物を減らす、家具は必要最小限なものとして置くこと。

また人は皆環境により大きく影響を受ける。

 


よって人間が創り出す環境ー住環境ーこそが重要である。

要らぬ物を減らし、さうして兎に角室内と外部との境界を極力無くすやうにすべき。

 

 

 

ハンス・ムールマン氏の手による邸宅は其処まで物を減らして居る訳では無いが逆に自然との境界を取り払うと云う意味ではむしろこちらの方が徹底して居るやうにも思われた。

 


彼は自然をこよなく愛し所謂環境に優しいことを地で行く建築家である。

土地の歴史を尊重し其の歴史を乱さぬことにむしろ建築作品としての主眼を置いて居られるやうだ。

 


其の過去の堆積物としての歴史を尊重したり物を減らしたり自然と近しい距離に人間の加工物としての家を建てると云うことこそがまさに文化的な思考なのではないかと思う。

 


資本主義経済体制が進むと兎に角要らぬ物が自然と増えるものだ。

また進歩思想が過ぎれば土地の記憶、其の歴史的意義などにはまるで思いが至らなくもならう。

 


だが其のやうな思考法であるからこそ脱近代はむしろ永遠にならぬこととなる。

脱近代とはむしろ進歩に拘泥することでは無く過去ー歴史ーを振り返り自然を見詰めることでこそ為し得ることなのではないか。

 

 

 

生物多様性が次第に失われ其処に文明の持続可能性が何より危惧されるに至った昨今の現代社會。

 


然し其の現代社會を快適に生きる為に造る住宅の窓が皆小さくなって来ても居るのである。

其れは出来るだけ冷暖房費を節約する家だとでも言うのであろうか?ー第一夏はもはやエアコン無しではそんな家には住めぬことでせうが果たして其れでも良いのだらうか?ー

 


だからそも其の設計思想の部分に人間の快適性に対する配慮が欠けて居る訳だ。

 

 

 

ちなみに我が家の母屋の方は昭和初期の古い家にて縁側があり其処での全面がガラス戸となって居る。

だから常に庭が見えガラス戸を解放し庭に打ち水をすれば夏の夕方であればエアコンが要らぬ程だ。

 


他方でボロ家となりつつもあり其の維持管理が大変な訳であるが個人的には其の窓の小さい今風の家にはまるで住みたくは無くたとえボロ家であっても庭の木々と通じて居る我が家にずっと住み続けて居たいとさうも思う。

 


先日其の母屋の居室に居た年老いた母が珍しくEテレを視て居た。

何を視て居るのかと思い居室を除くと何と其のアーキテクツプレイスのムールマン氏の巻(四話)をである。

 


で、其の感想を尋ねると其のほとんどが私と同じやうなものであった。

 


まさに其れが何だか我が家と似ているね、と云うことだった訳だ。

 


其の北欧の高名な建築家達が今目指して居る最先端での価値と古い日本家屋の価値が同じだと云うことがまさに其処に指し示されて居る訳だ。

かうして常に目に緑が映り込む家、ガラス戸の面積が大きく取られ日光に溢れた家、またさらに其れを開け放せば自然の延長線上となることだらう人間ー生物ーにとっての快適な住まいとしての形。

 

 

 

なんだ、理想はむしろ過去にこそあったのだな。其の日本の文化としての過去にこそ其れはあったのだった。

 


此処からしても今現代文明が目指す価値が人間の快適性に基づく為のものであるとは考えにくいことだらう。

住環境にせよまたまた労働に於ける環境にせよ其れが人間の快適性に基づく為のものであるとは考えにくいことだらう。

 


まさに其の部分に気付き人間の快適性を損なうこと無く文明を持続させて行く為にはまず意識的な変革を為さねばならぬことだらう。

だが先に述べた如くに社會としての意識、其の価値観を変革して行くことは現實的に言ってもはや至難の技なのだ。

 


ゆえにこそ個としての意識的変革を其処に目指す他は無い訳だ。

其の意識的変革を促すものこそがかうして建築などをも含めたところでのー藝術的なー感性の発露としての文化の力であるとさう述べて居るのである。

現代人にとっての眞の意味での幸せを目指す為の脱近代としての文化のあり方Ⅰ

 

さて本年度から私はEテレを良く視て来て居る。

 

昨年度までは余りTVを視る時間も無かったのだが今年からEテレを屡視るやうになった。

何故民放を視ないのかと云うとズバリ其れはアノウルサイCMを視させられるのに我慢がならぬからだ。

 

とは言え民放をまるで視ぬ訳では無く例のポツンと一軒家だの、また所謂日本通の外國人が日本的な価値に生きる様を紹介する番組などは結構好きで屡視て来ても居る。

 

だがさうしたグローバルな価値の交流が果たして何処まで続くかと云うことが次第次第に分からなくなっても来た。

グローバルな価値の交流は文明乃至は社會が元気なうちは良いがイザ其れが限定を受ける段になれば實際どうなるものやら分かりはしないものだ。

 

そんな中でEテレを屡視つつ気付いたことがあり一つには其れが文化藝術の持つ普遍的な価値のことである。

Eテレにはまさにそんな藝術を取り上げた番組があり其処で繪画だのデザインだの音樂だのに癒され其れがこんなコロナ禍にてお先が眞っ暗なことを述べるしか無いことであらうワイドショーなどを視て居るよりは余程に為になるのであった。

 

壱箇月程前だったか、其のEテレの番組で以下の番組を視其処に強く示唆を受けた。

 

アーキテクツ プレイス 北欧発 建築家の幸せな住まい

 

まだシリーズの全部は放送されて居ないのだが(4)までは視特に(2)と(4)に強くインスパイアされた訳だ。

 

故に其の(2)と(4)に就き述べてみたい。

 

 

さて北欧スウェーデンと云う國は社会保障が充實し所謂先進國としての高い見識のある國である。

 

民主主義の成熟性が高く評価されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、ノルウェーアイスランドに次ぐ世界3位で「完全な民主主義」に分類されている(2019年度)[5]。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングノルウェーフィンランドに次ぐ世界3位である(2020年度)[6]世界幸福地図では世界178か国で第7位(2006年)、世界価値観調査での幸福度(Happiness)はアイスランドデンマークに次いで第3位(2005年)であった[7]。2019年、米コンサルティング会社が実施した調査で、スウェーデンは世界で最も評判の良い国に選出された[8]。ースウェーデンより

 

立憲君主制を採る國であるのに何故其のやうに民主制としての意識が抜きん出て居るのだらう。

まさに其の辺りの事情には疎いのだけれど、所謂國家及び國民の「意識が高い」國だと云うこと位は私も以前から見聞きし知っては居た。

 

また近年ではグレタ・トゥーンベリ氏の活躍が記憶に新しいところであらう。

 

尚私は其のグレタさんの支持者である。

故に社會批判ブログの方でも彼女の活動を肯定的に捉え且つ其れを応援して来て居たつもりである。

 

私は基本的に現代社會は変わらねばならぬとさうかねてより考えて来て居た。

何故さう考えるのかと言えば何より其の現代社會には所謂持続可能性が欠けて居るからである。

 

 

ちなみに私は廿代の頃塾にて小中学生に社会科を教えて居たことがあった。

当時より私には現代文明其れ自体が何かとてつもない危機を内包するものとして捉えられて居た。

 

現代文明の継続は思えば其の四拾年前から至極危ないものであった。

 

だが当時は私にも明確な危機感などまるで無かったのである。

其処には要するに漠然とした危機意識のやうなものがあるだけで、故にたとえば五拾年、或は百年で現代文明は崩壊する、などとは實はまるで思っては居なかったのである。

 

其の漠然とした危機感がまさに實感となったのが21世紀を迎えてからのことだった。

 

そんなさ中宗教間の対立や経済的打撃などが引き起こされまさに世界は不安定化して行くのであった。

当時私は梅原 猛先生の哲學を學んで居る最中であり、よってか世界や文明を巨視的に捉えることが得意で其処で文明の行く末に就き考えたりして居たものだった。

 

兎に角さうした意味でも先進國を中心とする現代社會の流れは何処かで反省を為し社會の仕組み其のものを変えて行くべきもののやうに感ぜられて居たものだった。

ものだったのでは無く無論のこと今でも現代社會は自分自身で何とかせねばならぬ筈なのだが現實には決まって何かと足枷ー社會的な制約ーが多く変わることなどは出来ぬものと相場は決まって居る。

 

 

でも其の中で所謂先端的な思想を披歴して居ることだらうスウェーデンと云う國から學ぶことは多々あるのではないか。

特にこと近代的精神と云う意味ではむしろ後進性ー保守性か?ーを有して居ると目される日本國ではスウェーデンから學ぶべきことが其れこそ山のやうにあることだらう筈だ。

 

スウェーデンはまた環境に対する意識が非常に高くある國家である。

故にこそまたグレタさんのやうな文明への批判の試みが市民権を得て実行に移せた由縁でもまたあるのだらう。

 

 

対して🗾と云う國の環境に対する意識は戦後はむしろ低かったと申すべきなのであらう。

其れはむしろ戦後の高度経済成長により自然とさうなって行ったものだと思われる。

 

一例を示せば我我六拾代前半の世代はたとえ都會の人であれ昔の都市にあった自然の様をしかと覚えて居るものなのだー

 

無論のこと私も其の自然の様を今でも克明に思い返すことが出来る。

かって我我の周りには自然があり1970年頃までは其の自然の中で遊び且つ學ぶことが可能だった。

 

いや1980年位まではまだまだ自然は身近に残って居たものだった。

 

例えば色んな生き物が出る池があった。

またカブトムシが出る林があった。

 

さらにバッタやコオロギが出る原っぱがあった。

其れに畑の横には必ずあった肥溜めなどが何故か頻りと思い出される。

 

 

其れが今や全て無くなって仕舞った。

いや其れでも拾年位前までは我が家の庭へ蝶などが良く飛んで来ても居たものだった。

 

だが今や其の蝶の数が極端に減った。

尤も其の前に蝦蟇や🐍やらが家の庭からは消え去って行った。

 

 

都市に残された僅かな生命の連鎖が何故かさうして断ち切られて行くのである。

我我は何か勘違いをつまりは心得違いをして居るのではないか?

 

さうした認識がもう随分前より私にはあった。

 

 

いつしか我我は其の経済的な利益と云う怪物ー其れも抽象的に価値規定される怪物ーに踊らされ自らの価値観を曇らせて来て居るのではないか。

其のやうな認識が常に私にはあり其の認識から解き放たれることは以降結局無かったのである。

 

文明の持続不可能性、まさに其のことに気付かせて呉れたのは、中学時代の社会科の恩師である担任の先生がそっと私に教えて呉れたローマクラブの報告書であった。

 

当時私は文學書ばかりを読み眞面目に勉強をして居た訳では無かったのだが其の教師から社会科の自由課題を与えられ其の折に私が纏め上げたのが世界の人口爆発と食糧危機に関するレポートであった。

其のレポートが最大限に評価されたことから私は其のI先生から特別に扱われ其のローマクラブの報告書を読むやうに勧められたのである。

 

後に私が塾にて社会科を教えることになったこともまさに其のことが契機となった訳だ。

生物種の多様性が減じて行く其の流れこそが廿世紀以降にまさに引き起こされた人類と云う種の爆発的繁栄に比例する形にて引き起こされて居ることは明らかだ。

 

だが其れでは人間以外の生命の生存に大きく関わる影響が出て仕舞う訳だ。

平たく言えばまさに其れが種の絶滅である。

 

 

三十代の頃私は其の絶滅に関する本を読み漁って居た。

だが文系の我に絶滅の理論を解する能力は元より無い。

 

尤も高校生の頃生物學だの地學だのは好きだったのだが其処に数式だの化学式だのが出て来ればもはやお手上げである。

 

其れでも文系向けの啓蒙書のやうなものをさうして読み続けて居たのだった。

其の絶滅は何も目新しいことでは無くむしろ太古の昔より引き起こされて居る生物としての種が辿るひとつの運命のやうなものである。

 

然し其の自然の内なる淘汰の話と文明の圧迫による生物種の絶滅の話とはまた別ものである。

であるとすれば、スウェーデンの人々が環境に対する意識が高いとされるのはまさに其の文明の圧迫による生物種の絶滅が何より危険であることを知って居るからなのであらう。

 

 

でも島國でもって世界有数の豊かな自然を持つ日本人の環境に対する意識がむしろ低い位置にあるのは一体全体どんなカラクリによるものなのだらう。

 

結局私は其の理由を近代化を急ぐ余りにむしろ一番大事な心としての価値のあり方を犠牲にし突き進んで来た日本の社會が奉じた価値観即ち思想の誤りであることに気付き愕然とした。

第一日本の里山にある森はほとんどが有用林である杉の植林がなされて居る。

 

ちなみに小学生の頃カブスカウトに居た私は少年の頃より近場の森や低山に入ることが多かった。

然し大人になるとモノマニアとなり逆に百貨店や骨董祭巡りをすることこそが最大の愉しみとなって行く。

 

だから暫くは自然の大事さのことなどスッカリ忘れて居たのである。

だが三十歳を過ぎた辺りから再度アウトドアーへと意識を向けソロトレッキングを行う為に屡山奥へと出かけるやうになった。

 

其の折に初めて分かったことがあり、其れは自然とは其れ自体が完璧な調和を保つひとつの系であり其処に手を加えるべきものでは無いと云う直感のことだ。

哲學的思考が得意な私はさうして山や森を歩きながら様々な思いを巡らせる。

 

 

人間存在の實存的意義や社會の意味などに就き様々に考える。

皮肉なことにさうして山や森を歩きながら自然のことを考えるのでは無くまさに其の人間のことばかりを考え込んで居た訳だった。

 

つまるところ問題は自然の側にあるのでは無くむしろ人間の側にこそしかとある。

 

だから私は自然を外側から眺めてなどは居ない。

むしろ自然は私の内側に拡がるもので、其処にこそ居を定め逆に文明を外側から眺めつつかうして其れを論じて居るのである。

田根剛氏による目覚めた人間の為の建築ーサステイナブルな文明のあり方を模索する試みⅡー

 

田根 剛×齊藤太一 大地とつながるキッチン。 お手本は縄文の台所です。

 

其の番組中で最も驚いたのがこちらの邸宅でした。

見た感じでは非常に洗練された空間でまさにお洒落なのですが、實は脱近代的な要素も其処には多分に盛り込まれて居る。

 

即ち土壁だのガラスで囲んだ温室のやうな造りだの古臭い要素がふんだんに盛り込まれて居ます。

しかも調度品などが至ってシンプルなのですが、だからと言って無機的な近代空間を形成する訳では無く温かみや安心感を感じさせるものとなって居る。

 

私はまさに此の家こそが現代に望み得る最高の個としての空間なのだとさう素直に思う。

 實はTV番組の中ではもっと庭の木立の様子が強調し映されて居てまるで林の中に建つ別荘の如き景観を呈して居りました。

 

で、此の邸宅はそんなに高価な素材を使って居る訳では無いと云うのに住空間として高いレヴェルでの快適性を實現して居るかのやうです。

 ですが世界的な建築家である田根氏の作品であれば無論のこと其の設計費などはお高いことでせう。

 

 

なのだが、我我は其処から學び得る筈だとさう思うのです。

 こんな家には勿論誰もが住めない訳ですが此処に示されたところでの人間の生活に対する快適性に関する要素としての本質を我我個は取り入れることが可能な筈だ。

 

で、さらに極論を言えば其処は洋風だらうが和風だらうがまるで関係無い訳だ。

 洋風だらうが和風だらうが人間を快適に住まわせる要素とはまさに自然との共生関係にこそある。

 

 

逆に言うと田舎の一軒家のことなどが何故か近年はTV番組化され大人気なやうですがまさに其れは田舎の一軒家の方が都会でのマンション暮らしよりもずっと快適に暮らせると云った事實からなのでしょう。

 

ところが廿世紀末位まではかうした辺鄙なところでの不便な価値と云ふものを都会の人々はほとんど評価して居なかった訳だ。

尤も芸能人などでも一部の文明のあり方に対する見識の高い人々が早々と田舎へと移住して居たりすることはあった。

 

でも勘の悪い人々には何でワザワザ都落ちするのかと云った其の価値観の違いから来る無理解があった訳です。

 其の都が良いと云うのはまさに文明が良いと云うことで、其の価値観に立てばTOKYOやらNEW YORKやらこそが最高で奥三河の一軒家などは如何にもダサくなって仕舞う。

 

ですが逆に都会の人は現代社会の抱える矛盾の酷さにやられ都会の価値観こそがむしろ最低に感じられるが故に其処に限りむしろ田舎の一軒家こそが理想郷となるのだらう。

 

 なので其れは最終的に価値観の違いの問題となるのです。

 

 

しかも美意識としてのあり方の問題なのでもある。

 其の美意識さえあれば田舎でも高度な文化的生活はおそらく可能でせう。

 

いやむしろ藝術家は静かな環境をこそ好むものです。

 

藝術家にとっては内面での出来事が最も大事な訳ですので其のウルサイ都会を離れ沈思黙考することが可能な環境へと是非移住したくもなる訳です。

なんですが其処まで考えたり感じたりはして居ない大衆に取り其れが必要かと申しますとむしろ其の不便さが合わないことだらうとさうも思うのです。

 

 

さて其の都会的洗練に就ひてですが其れは結局理性の力によるものなのかもしれない。

 しかしながらそも其の洗練とダサさの境界と云ふものが良く分からぬ訳だ。

 

但し田舎のものでも本物の家は至極立派な家で其処は洗練とは違うのかもしれぬが其処に揺るぎない伝統の価値、本物の価値を感じさせられるものです。

 

たとへば私の弟の嫁ー私より三歳上ーの長野の家などは文化財指定されて居るまさにそんな立派な家です。

其処には本物の素材ー主に木曾檜ーがふんだんに使われて居り其の柱の太さ、見事さにはいつもながら圧倒されて仕舞う。

 

其の都会的洗練も如何にも馬脚を露すのが早いと申しますか80年代までは持て囃されたやうな直線的なビルだの何だのは今は流行らなくなったようだが其れでも都会にはいまだにコンクリ製の直線的造形物などが多い訳だ。

其の幾何学的な造形がおそらくは有機体としての人間の素の姿には元々合わぬものなので次第に其れが疎んじられやがては皆が山奥の一軒家を再発見して行くことでせう。

 

 

幾何学的な造形であれ何であれ其れを有機的に再編成し少しでも人間の生のあり方に適合させることこそが大事な訳で、彼田根氏の作品にはまさにそんな意味での有機的複合の努力の痕ー理性的なーが何より感じられるので其の空間が生体にとっての快適性を生み出すことかと思われる。

 

さうしてまさに其の有機的複合の鍵を握るものが植物との共生です。

 

田根氏の建築作品には其の植物との共生の思想が何より垣間見える訳だ。

 また植物だけでは無く土と云う地球の表面との共生を建築の中に盛り込む点こそがまさにユニークな視点です。

 

 

皆様御存じのやうに古い日本の家屋には土壁がありまた我が家などもまたさうですが基本的に木と紙とでもって出来た家です。

 此の日本家屋は隙間が多く冬はとても寒いのですが高温多湿となる日本の夏にはむしろ向いて居るものです。

 

其の日本家屋には縁側と云ふものもまた御座りまして夏の夕方にソコに寝っ転がって居りますと庭から涼しい風など吹いて来其の侭で快適ですのでかってはエアコンなど要らなかったのです。

 なのですが近代化から地球温暖化が引き起こされ其れでもってさうしたかっての自然的な生活も次第に難しくなって仕舞いました。

 

 

尚家には家を新築する予定などはありませんが閑静な住宅街である我が家の辺りでは代替わりにて家を新築される方がまた多い訳です。

 すると其の新しく出来た家が皆おかしいのです。

 

良く見ますと皆窓が酷く小さく要するに外部との物理的接触を遮断するかのやうな家がほとんどなのです。ーまさに家の内部だけで完結するやうな家ー

 私はまさに其れが文明の価値観としての病気だとさう思うのでたとえどんなに綺麗な家でもそんな家に住む気になどサラサラなれぬ。

 

 

兎に角文明が自然との交流を遮断するかのやうな考へ方こそが現代社會の陥った深い病の部分であることだけは間違いありません。

 

で、先に申しましたやうに其れは西洋だからまた東洋だからと云うことではありません。

 

進歩的で合理主義の筈の米國などでも意外に自然と共生し暮らして居るケースなどが屡見受けられます。

 より保守的であらう筈の英國などは或はもっともっと自然との関係を大事に捉えて居るのかもしれません。

 

日本の田舎でも勿論其の自然を大事にして来て居る筈です。

 ですが何故か日本の都会、其れも大都会のみが自然に対し極めて冷淡なのです。

 

まさに其れが戦後民主主義に於ける経済成長を目指して来たことの弊害で無くて何なのでせう?

 

 

「記憶は現在を動かし、未来をつくる」田根 剛「未来の記憶」より

 

田根氏はさうして常に記憶を呼び覚ます訳だ。

其の記憶とは何より時間の経過を表すものでせう。

 

其れを意識ー理性ーとして誘導し物理的に組み上げる訳です。

未来への選択としてはおそらく其れが最善の結果を齎す筈です。

 

此処からしても人間はさうして文明は一度近現代の歴史を逆転させてみるべきなのやもしれません。

人間の歴史とは實は近現代のみに偏ったものでは無く中世や弥生時代縄文時代、また石器の時代をも内包するものです。

 

故に未来をつくるのはテクノロジーの力だけでは成し遂げられません。

テクノロジーは基本的に数的還元された価値観のことですので、其処にはほぼ有機体としての人間の快適性が考慮されて居ないことでせう。

 

だからAIをつくることがむしろ有機体としての人間の快適性を損なって行くことでせう。

まさに其れは🚗や✈や🏭やらが悪いものを撒き散らし地球を汚すことで人間の快適性を損なって行ったこととまるで同じことです。

 

 

ですからみんなが信じて居るもの、闘おうとして居るものの相手がそも違うのです。

みんなは文明に疑いを抱き逆に其れと闘わねばならぬのです。

 

所謂ポジティヴな未来、希望に満ちた未来は、其の文明を盲目的に信じ切って居る部分からは決して生じ得ぬことだらう。

其ればかりか現状から鑑みるに夢と希望に満ちた未来などもはや何処にも存在して居ない訳だ。

 

けれどももしも文明が其の未来に今を繋げたいと云うのであれば逆に今を過去にこそ繋げてみるべきだらう。

むしろ過去こそがそんな希望としての記憶の宝庫なのだからこそ。

 

 

田根:また、当時は世界的に、「スター建築家」という建築家像が流行った時代だったんですね。スター建築家が世界のどこにでも現れ、コンペを獲り、個性の力でグローバルに活躍する。それに対して、僕らの世代は同じ道に向かうのか、違う未来を作るべきかということを、ヨーロッパで仲間とよく話していました。そんなとき、建築を作る原理として「記憶」という言葉が、僕のなかで強くなっていったんです。

 

田根モダニズム建築には、もともと、宗教や政治から自由に建築を作ろうとする創造的な意義がありました。しかし、それが幸か不幸か経済と結びつき、ガラスとコンクリートによって誰にでもできる仕組みになった。その結果、とくに大都市はどこも高層化し、抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったんです。そんな時代の次に、僕たちは忘れ去られたものを発掘することで、何か異なる意味を探りたいと考えてきました。

一方で、古代まで遡って考えるなら、建築の基本は「場所の記憶を作る」ことだと思っています。ある場所に記憶を付与して、2つの地点に「ここ」と「そこ」という違いを作ること。

そこで重要なのは、記憶というと人の記憶に寄りがちですが、僕が言うのは、まさしく場所が持つ記憶のことなんです。人は記憶を忘れてしまうし、誰とも共有せずに亡くなることもある。でも、場所には人の記憶を超えたものが刻まれているから、それを掘り起こして未来につなげたいと思うようになりました。

 

田根:じつは「未来」という言葉をなかなか使えずにいたんです。だけど、エストニアミュージアムができたことで、本当に土地の人々の人生が変わり、街が明るく変わっていくのを見ました。建築は、完成した瞬間に未来に向かっていくんだということを、とても強く感じることができたんです。

その経験を経て、「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかと。今回の『未来の記憶 Archaeology of the Future』というタイトルには、そんな思いを込めました。ー田根剛の頭の中はどうなってる? 古代と未来をつなぐ建築家に訊くより

 

 

ー抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったー

 

まさに私が批判して居る点が其の現代文明に於ける抽象性のことです。

 

主に都市に於いて抽象的な空間が増えることで、またさらに抽象的な概念が増えるー増殖するーことで人間の観念が本来持って居る筈の具象性が圧迫され且つ破壊されて行く訳だ。

より具体的に申せば今ゲームやスマフォの蔓延にて今子供の近視が進みもう大変なこととなって居る訳です。

 

其処にさらに批判を加えますれば今の教師や母親達は一体全体何をやって居るのでせうか?

何でまた子供達が小型のPCを持ち歩きネットやらゲームやらをする必要があるのだらう。

 

 

ー「場所の記憶を作る」ー

 

壱種難しい論題ではありませうが、考えてみるとポツンと一軒家の其の一軒家の価値と云ふこともまた確かに其の場所の記憶なんです。

だから場所の記憶と云うことは人間の持つ抽象的な思考の癖を離れて具象的な場に立ち戻ると云うことなのではないか。

 

ー「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかー

 

確かに近代的な原理とは進歩により創造と破壊を繰り返しつつ歩んで行く其のパターンの固定化でもまたある訳です。

 

創造と破壊なのであれば其れは本来ならば神のみが行うべきことである訳ですが、近現代はまさに其の立場を人間が入れ替はり本来ならば神の御業であることをあえて人間がやって行って仕舞う訳だ。

でも其れは嘘の御業でありあくまで人為での所業ですので何処かにポッカリと開いた穴、欠点が存して居りまさに其処がデカくなることでいつしか文明の全てが其処へと吸い込まれて行かざるを得なくもならう。

 

其の如何にもヤバい🐜地獄のやうな世界ー人間の認識にて自ら選んだ世界ーをギリギリの綱渡りでもって此れ迄やって参りましたが2020年を迎えると同時にドーンと全てが其の穴へと落ちたのでした。

で現在はまさに其の穴の中でもがき続けて居ると云ったところなのだらう。

 

其のギリギリの綱渡りとはそも危険なものなのでやらぬ方が良ひ訳ですがあえて其れをやり今はかうして穴の中でもがき続ける他は無い訳です。

其れ即ち🐜地獄のやうなもの、嗚呼まるで人間地獄、文明地獄のやうなものに捉えられたのだとも申せませう。

 

 

ー「記憶と未来を一体化する」ー

 

近代的原理はたとえばニュートン力学や天動説を否定した上で相対性理論量子力学、また地動説を打ち立て其れを奉ずることにて新しい人間の考えのみに生きやうとします。

なのですが、實は過去のものが悪いと云ふ証拠など何処にも御座りません。

 

逆に言うと新しい人間の考えにのみ傾くことのリスクはまさに計り知れぬものがあると云うことでもある。

進歩には必ずや其の二面があり、まさに其れが人間が表面的に便益を享受することの裏腹に地球を崩壊に至らしめて仕舞う虞さえもがあると云うことだ。

 

故にむしろ記憶を未来へと取り入れた方が文明のリスク管理はやり易くなるのです。

 

たとへば地球温暖化の大問題であるにせよ二酸化炭素をドンドン出しつつ現代文明を継続させて行くよりは原始的要素を取り入れた生活を営むことで生としての循環や自然との共生を目指して行くことが初めて可能となることだらう。

 

 

また其の事は結局エネルギー管理の問題にも絡んで参りませう。

其の過去を取り入れたローリスク型の居住空間を構築することでより少ないエネルギー消費にて人類の営為が新たに開始される筈です。

 

問題は成長を前提とする資本主義が其のモデルに適合せぬことですがさうであるならむしろ資本主義を放棄して行くべきなのではありますまいか。

 

資本主義など放棄し原始共産制だの無政府主義だの色んな社會のあり方が其処に考えられるではありませんか。

要するに人間がグローバルに活躍する必要などもはや何処にも御座りません。

 

さうした幻想としての抽象的価値は具象的限定としてのコロナ禍がすでに葬り去って居ることだらう。

 

 

其の人間にとっての新たなる住環境と云うのは庶民にとっても分かり易い具体的な領域だと思われます。

思想だの何だのを抜きにしても兎に角分かり易いまさに具象的な事例のことです。

 

ですがまさに其の住環境こそがおかしくなりつつあるのではなひか?

 

其処が今私には懸念される部分なのです。

何故なら新たな住宅はまさに合理的に設計され自然との関わりを断って行くかのやうだ。

 

自然との関わりを極力大事にして行く為には近代的な価値に対し少なくとも懐疑的な姿勢を貫けるやうでなくてはならない。

ですが庶民にとり其れがもし難しいのであれば何故田根氏の創られた建築物が快適さうに見えるのかと個として考えさらに其れの眞似をしてみれば良いのです。

 

 

たとえば植物を自分の部屋に入れるなどしてみるだけで部屋の雰囲気はまるで変わるものです。

 

私の場合は竹を入れていますね、其れも育ち過ぎて隣の家にまでかかって仕舞った黑竹を切り壱本其の侭に入れて居ます。

其の竹は枯れて仕舞ひましたが七夕の如くに色々と飾りつけなどが出来ますのでこれから色々と飾り付けて行こうかとも思って居ます。

 

尚私は筆記具のコレクターでもあるのですが、庭の竹ー様々な種類のーを軸に使いDip Penを作ったりも致します。

 

他にも石などは部屋に沢山置ひてありますので無論のことながら其れ等が一番綺麗です。

石は枯れもせず飯も食わずで人間が生きてる間にはほとんど変化しないものですのであくまで装飾品としては理想的なものですし何よりも其れ等は自然物なので眺めて居ることだけで癒されるものです。

 

此の自然物があると云うだけで人間にとっての居心地の良い住空間が形作られていくのです。

 

かうして人間は常に自然を大事にしつつ生きるべきです。

其れも居住スペースの中に意図的に自然を取り込むことでこそ眞の意味での癒しの空間が形作られるのではなからうか。

                                               2021-01-28

田根 剛氏による目覚めた人間の為の建築ーサステイナブルな文明のあり方を模索する試みⅠー

 

本日朝Eテレを視て居たら、其処でたまたま凄い番組が流されて其れに目が釘付けとなった。

一言で評せばまさに其れは眞の意味での文明の進歩のあり方を示すことだらう建築のことでした。

 

で、其れが或る建築家により東京にて行はれて居るものであることが分かった。

 

其の表参道と言へばかってわたくしは17歳の折に訪れましたが其の折にわたくしはカツラを被って其処を歩ひて居たものでした。

 

 

 

サステイナブル【sustainable】ー[形動]《「サステナブル」とも》持続可能であるさま。特に、地球環境を保全しつつ持続が可能な産業や開発などについていう。

 

 

さて其のサステイナブルな文明のあり方ですが、實はまさに今其れこそが文明に問はれて来て居ります。

と申しましても其のことは一部の「意識が高ひ系」の人々の間でのみ重要な観点として流通するばかりなのでせう。

  

「意識が高ひ系」の人々にも色々と種別があることかと存じますが日頃から私が思って居る事とは決して経済的な成功の中だけに其の意識の高さが存する訳では無ひと云ふことなのだ。

 

勿論経済的な成功者の中にも洗練された意識を持ち其れなりに自らの価値観を固められて居る人々が要ることでせう。

 

でも私ははさうしたものを特に評価する訳では無ひ。

 

私が見詰めて居るものとはズバリ其の人が持つ生に対するコンセプトです。

 

彼がまた彼女がどのやうなコンセプトを持ち今と云ふ時を生き抜ひて居るのか、まさに其処こそが問題となるのです。

 

  

さても其のサステイナブルな文明のあり方とは何か?

まさに其の点が「意識が高ひ系」の人々にはすでに分かって居るのです。

 

たとへば岡本 太郎氏などが其の脱文明への藝術的見地からの模索をなした人であったことだらう。

岡本 太郎氏は縄文時代の生粋のエネルギーのやうなものを現代社会に蘇らせ其れを其の侭に現代と云ふ倒錯の世界にぶつけてみた訳だった。太陽の塔

 

  太陽の塔#第4の顔_「地底の太陽」(太古の太陽) 生命の樹より

 

 

太陽の塔を創った「爆発する藝術家」としての岡本 太郎氏による生に対するコンセプトはむしろ「人類の進歩による自然の不調和」であった。

其れ即ち「意識が低ひ」=「獣」としての人類の営為が積みかねられる程に自然は汚され其ればかりか破壊される即ち持続不可能なものとなって行かざるを得ぬ。

 

 

だから其れは表向きの「調和」とはまさに裏腹でのコンセプトであった。

さうして望ましくある筈の生のエネルギーの発露は現代が目指す進歩などでは得られず、むしろ縄文と云ふ過去を振り向くことでこそ得ることが可能となる。

 

即ち人間の生としての根源的なものを見詰めなければ進歩がむしろ破壊者であることの實相が見極められぬ。

 

此処からも所謂意識が高ひと云ふことはそんな現代の価値観に対する批判力のこと其のものなのだらう。

 

だから其のサステイナブルな文明のあり方の問題とは最終的には見識の違ひ=価値観の違ひの部分に集約されて来ざるを得ぬ訳だ。

 

 

つまるところ意識の低い奴には物事の實相がまるで見へて居らぬが故に人間は進歩して偉ひなどとさう思ひつつも實際には文明は世界を破壊して行くことしか出来ぬ訳だ。

 

私が此の処「獣」と云ふ概念を提示して居るのはまさに其の見識が低い様、要するに知識だけはあっても物事の道理がまるで分かって居なひ文明に於ける認識の様をさう揶揄して言って居たのだ。

 

 

つまるところはまさに其れが現代文明による価値観と自分でもって創り上げて来た価値観との齟齬であり乖離である部分なのだ。

 

だがサステイナブルな文明のあり方を模索し且つ其れを提示して行くことこそが藝術に与へられた使命であることもまた確かなことなのだ。

其の気付きの力を世に指し示す=表現することこそが表現者であることとさうでは無ひ世界との溝や壁に対する挑戦でもまたあることなのだらう。

 

だから其れはどんな藝術上の分野であるにせよ同じことなのだ。

 

絵画にせよ彫刻にせよまた建築にせよ文學にせよまさに其の使命をこそ其処に担って居るのだと言ひ得ることだらう。

 

 

さて其の建築家の田根  剛氏のことですが、此の方はまさに文明の目指すべき方向性を高ひレヴェルで表現されて居ると云ふ意味で抜きん出た方なのだらう。

 

ー「私の想いを正直に話すと『今、みんなが本当に欲しいものは何?』をお客さんと一緒に考える場所をつくりたかった。環境やライフスタイルの急な変化が起こっている中で、人々の価値観も変わっていることは確か。私は現代の生きづらさの一因に、自分では作れないスマホや移動手段に頼らなければならない恐怖感があると考えていて、今回この“更地”で、一から私たちに必要なものを確かめたかったんです。たとえば先日、ここに陶芸家の方がいらっしゃって、一緒に『縄文時代ごっこ』をしたのですが、庭園で焚き火をしていたらお皿や器ができました。作物も育てているから、美味しいごはんも食べられる。土からレンガをつくって家も建てれば、ここでミニマムな暮らしができるなと小さな自信と喜びを覚えました。もしかしたら、この感覚を可視化して訪れる方々に共有していけば、現代の生きづらさが解消される未来に繋がるかもしれませんよね」

「歴史を振り返っても、新しい文化は、リセットされた更地から始まるものですから」ー床、壁、天井、テーブルも地球に還る「土」。表参道でサステナブルな美食体験「GYRE.FOOD」よりー料理人である野村 友里氏の言葉ー

 

 

かうして現代文明は抽象的に現在を形作り過ぎて居ます。

其の現在は謂はば虚の現在であり人間にとりあるべき今なのでは無い。

 

或は学校で教師達も今困って居ることでせう。

今はコロナのこともありませうが、其れ以前に子供達の近視の拡大がもう酷いことになって居るやうだ。

 

其れも教師であるのなら、むしろほんたうのことを子供たちに教えるべきだとわたくしなどは思いますのですが。

さうスマフォも🚙も要らんとさう教へるべきなのだと思います。

 

現代文明に必要なのはさらなる進歩への欲望では無く進歩を否定するに足る個としての強い意志の力です。

まずは教師が率先して此の意識改革をなし循環型の文明のことを考へるべきだらう。

 

でもコロナにやられた分また余分な雑務に追はれる分教師の皆が追ひ詰められ考へる機会すら持てぬのが實情なのだらう。

だから教師はそんな文明の奴隷なのではダメだ。

 

 

其の近視の拡大は然し大問題です。

其れもゲームだのスマフォだのの影響が一番悪いのださうだ。

 

また🚙にいつも乗ってる人も體を使はぬ分必然として体力が落ちて行きます。

要するに文明の利器が須らく人間の肉体にとり悪ひのであります。

 

だからまずはソコ、ソコをこそ止めるべきでせう。

 

是非進歩を否定し子供等の肉体を文明による破壊から守らねばならぬ。

其れも早急に其れをやらねば子供が皆弱くなって行かざるを得ない。

 

 

現代の文明、まさに其れは「悪い」ものです。

まずみんなは其処が分かって居りません。

  

 

『今、みんなが本当に欲しいものは何?』

 

東京や大阪、また其れに準ずる都市での見識が高い人々はもはやスマフォも🚙も要らんのであります。

まあ其処まで言う人は此処名古屋には少ない筈です。

ですが、わたくしに限っては感度が高くあるのでかうして当地では極めて珍しひ文化人でもまたある訳だ。

 

でも田舎の人、アンタ方が欲して居るのはむしろ其のスマフォや🚙や高層ビルなんでせう?

でもってTOYOTAみたく大金持ちになりたひとさう思っていますね。

でもそんなものは間違ひだらう。

 

TOYOTAイチローも金を持ち過ぎて居り其のことによりほとんど其の思考が濁って仕舞って居ることだらう。

 

 

 

米アマゾン創業者の元妻、「弱者」に寄付 4400億

此れはとんでも無いお布施の額です。

 

でも此の方、純資産は560億ドル(約5兆8000億円)とのことですのでほんたうならば五兆五千億円以上を寄付せねばならぬのでせう。

少なくともキリスト様ならば五兆円以上を寄付せよとさう仰る筈であらう。

 

資本主義は左様に頭がオカシイ。

要するに富が偏り格差が酷くなるやうに元々出来て御座る。

 

 

つひ文明批判に熱が入り肝心のことを言い忘れて居ました。

 

此の表参道の商業施設「GYRE」4Fに存在する“循環”をコンセプトとした食空間「GYRE.FOOD」ー田根 剛氏による設計ーの居心地の良さそうなことと言ったら。

 

“循環”がテーマの新グルメスポットが表参道「GYRE」にオープン

 

近現代の文明はまさに其の人間にとっての重要な価値としての「循環」を忘れたかのやうに「進歩」のみを追い求めて来た。

いつしか資本主義はより合理化されまさに合理的に利潤をのみ追求するシステムと化し抽象的な進歩を達成させる為のイデオロギーとなりつつある。

 

だがそんなイデオロギーが果たして我我に何を与へて呉れるのだらうか?

 

 

『今、みんなが本当に欲しいものは何?』

 

我我は今ほんたうに株価だけが吊り上がり其れでもって嬉しいのだらうか?

我我はコロナが収束しまた同じやうに資本主義が復活することを望んで居るのだらうか?

 

我我はコレ以上に飽食しまたコレ以上に知識を詰め込みコレ以上に電脳化し其れでもって幸せだと果たして言い得るのだらうか?

 

我我に必要なものとは其の「循環」を可能とする為の理性の力であり其れ即ち所謂見識が高ひところでの価値観の成就である。

 

人類は今まさに其の獣であることから卒業して行かねばならぬ。

其の獣臭ひところを脱し眞に理性的な文明を築くに足る感度を今後は磨き続けて行くべきだ。

 

 

確かに大衆は常に多くを望んでなどは居らぬ。

民衆は只普通に生きることを望んで来ただけのことだ。

 

だが現代では其の普通の欲望が戦争をまた進歩を支持したりもする。

其れに自民党は罪人であるにも関はらずかうしていまだ大衆により支持され続けて来て居る。

 

 

兎に角サステイナブルな循環とは理性の働きが創るものであることを何より田根 剛氏による建築から學ぶことが出来るやうに思う。

また番組中に視たことで衝撃的だったのは、此処のテーブルがなんと土で作られて居ることだった。

 

さうして土にて作られたテーブルは時の流れと共に部分的に壊れて行く。

だが其の自然としての時の流れを此の空間は受け容れて居る。

 

現代文明の構造物は其の逆に自然としての時の流れを拒み続けて居ることが多いことだらう。

さうして自然と隔絶する形で普通高層ビル群などが造られて居る。

 

また化石燃料の大量消費にせよ其れは本質的には其の時の流れを拒み続けることに他ならぬことだらう。

 

 

其の時の流れをむしろしかと見詰めて行くことこそが大事だ。

先に述べたやうに時の流れとは分離であり分裂のことだ。

 

故に時は本質として流れるべきでは無いものなのだ。

 

時が流れると矛盾が生じる。

さうして分かたれたもの同士が繋がることで矛盾を生じることだらう。

 

だが其の矛盾から顔を背けることなどは出来ぬ。

其の矛盾を見詰めることでつまりは時の流れを感ずることで我我は獣としての認識を脱しより高ひ感度と見識を磨き続けて行くことが初めて可能となることだらう。

 

矛盾を直視することなく文明が渡り続ける横断歩道に今其の赤信号が点って居る。

文明が齎す刹那の利益だけに固執し其処での快楽を貪り続ける其の様こそが醜ひ獣としての有様を形作らずして他に何を形作ると云ふのだ。

 

 

自然はかうして本来心地良いものなのだ。

田舎にはそんな自然があるが、大抵の場合田舎には金が無い。

そんな抽象的な価値の達成の為に都会と云ふものがまたつくられたことだらう。

 

だが都会で追求される抽象的な価値は容易に肥大化し且つ劣化する。

其れはやがて人間の肉体を脅かすものともなり得ることだらう反自然の力の増殖のことだ。

 

そんな獣の力としての欲望がさうして全てを破壊へと導くことだらう。

まさに其処では都会もまた田舎も共に破壊されて行くことだらう。

 

 

であるからこそ今まさに其の破壊を理性にて阻止するのだ。

破壊を止め得るものは理性以外にはあり得ない。

 

其の理性の働きこそが「循環」の思想の中にはある。

「循環」を可能とするものは理性であり、逆に破壊とは獣としての欲望の仕業である。

 

また「循環」とは神佛による智慧であり、破壊とは其れとは逆の魔の働きによるものだ。

其の魔に支配された世界こそが今まさに破壊へと突き進んで行く訳だ。

 

其れにストップをかけ人類が自ら行ひを正して行く為には目覚めた理性による新たな価値観の構築こそがまさに望ましい訳だ。

 

其の理性による新たなる価値観の構築の實例として私は田根氏の建築を是非挙げておきたく思う。

                         2021-01-17

役立たぬことの意義ースポーツ、藝術、宗教の意義ー

松山英樹が日本人初制覇を果たした「マスターズ」ってどんな大会?

 

私の場合はゴルフ歴が長かったー三十五年程ー訳ですが最近はゴルフに対する具象的限定ー足腰の調子がいま一つーを受け其れを続けられなくなって来て仕舞った。

尤も其れ以前にスポーツ其れ自体の意義と云うか意味と云うか其れが根本的に問われる社會のあり方となって仕舞った訳だ。

 

何故ならコロナ禍や地球温暖化の進捗状況などから鑑みるに其のスポーツをやる余裕が次第に文明から失われて行くやうに思えてならない。

實際我我の生活は今其れどころでは無い状態にある。

 

今文明は継続して行くこと其れ自体が難しい状況へと次第次第に追い込まれて行くかのやうです。

 

まさに其処が現代文明が抱える自己矛盾性の体現であり同時に未来に対し構築すべき価値の模索の時期であり文明自らが反省をなし其の価値観をシフトしていくべき課題を現實として突き付けられて居る様なのだらう。

 

文明の現在とはさうした意味での理念的転換が是非必要な時でありよって此れ迄に追求して来たやうな諸価値に対する根本からの問いかけを其処に投げかけて行かねばならぬことだらう。

 

 

事實上はさうした状況にあるので結局は全てが其の新たな価値の尺度より再評価されるべきで其の点に鑑みても要らぬ部分は是非切り捨てて行かねばならぬことだらう。

特にスポーツや藝術は文明が健康体であるべき時にあくまで機能するものであり其の文明其れ自体が病んで人々に余裕が無くなって来れば必然として限定されて行かざるを得ぬものであらう。

 

逆に言えばスポーツに興じ藝術に親しむことは社會に余裕が無ければ其れは成らないと云うことともならう。

 

其れにかうした食うや食わずの領域がもしも社會に蔓延するやうでは其れこそ文化や運動どころでは無い訳で其処で求められるものとはまず飯であり飲み物でもあることだらう。

 

 

其の食うや食わずでの領域がもしも社會に蔓延するするのだとしたら其れは二千五拾年以降のこととなるだらうと私は以前からさう考えて来ても居た。

 

従ってスポーツに興じ藝術に親しむことはむしろこれからの文明にとり「古き良き」時代の豊かさの体現其のものであり過去に存して居ただらう幸せでの形のことなのだ。

 

 

さうしてスポーツに興じ藝術に親しむと云う日常は今後否応なく圧迫され其れどころでは無くなって行くだらうと云うのが私自身が取る文明の基礎認識です。

 

故にスポーツに興じ藝術に親しむことは文明にとっての最後の夢の場としてむしろ今のうちに日々其れに親しんでおくべきだらう。

 

何故ならさうした役立たぬ価値、本質的にはあっても無くても良いやうな価値こそが實は我我の心や體を励まし此の辛い浮世での勤めに対し癒しを与えて呉れるものなのだからこそ。

 

 

但し其の領域は今後次第次第に圧迫されても参りませう。

 

其れも社會の合理化により其の役立たぬ方の価値からまずは切り捨てられて行く訳だ。

 

なのだけれども本当はむしろそちらの方こそが心と體にとっての糧となるものなのです。

 

 

要するに心にとっての潤いこそが文化であり體にとっての潤いこそが体育なのです。

 

将来もしも其れが無くなったとして、其れでもって人間は心地良く生きられて居ると其処で言えることだらうか?

 

社會としての其の利益の追求の為に、其の人間の妄想としての利益の確保の為だけに懸命に日々を生きる、まさにそんなディストピアとしての未来に対し我我個は果たして我慢が出来るのだらうか?

 

 

であるからこそ今私は逆に其の心と體の為の価値を肯定的に捉え直します。

但し、商業主義と結び付いた文化やスポーツを其の侭に認めるものでは無論のこと無い。

 

 

まさに其れは会社による資本主義や國家による経済的負担を其処に背負わされた不純なる価値観のものなのでさうしたものはむしろ全否定しておきたい位のものです。

 

また其のゴルフにせよ環境破壊を進めることでまた大金が動く近代的なスポーツとしての不純なる価値観の部分を免れるものでは無い。

 

なのでさうした抽象的に規定される大スポーツ大会や華々しい売買の場を離れむしろ個として具象的に其れを規定して行くべきことだらう。

 

 

なのではありますが、兎に角大スポーツ大会や藝術祭等が続けられるのは此処参拾年余りに限られることだらう。

 

だからむしろ其の機会を享受し今のうちに愉しんで置く。

 

さうした意味での其の實質的には役立たぬ価値を今こそ最大限に大事にして置きたいとさうも思う。

 

 

だからこそ其処でもって一般大衆が喜ぶやうな「優勝」だの克己努力だのと云った価値をむしろ否定しないこととしてみた。

 

其れにかってイチローが王や長嶋がまた青木やジャンボ尾崎や中島がスポーツ界を背負って居た時代は時代としてむしろ恵まれたものだった。

何故なら其れは文明にとっての自己矛盾が今程大きく具現化されては居ない時代だった故にだ。

 

此の度プロゴルファー松山 英樹はそんな時代にはやれなかったことをやったのですから時代が如何に悪からうと心中での展望のやうなものを我我に与えて呉れたのだ。

 

ですが、おそらく其れは薔薇色の未来への契機となるものではおそらく無いことだらう。

 

文明はまさに自己矛盾の度を日々高めつつあり其の未来は逆に閉ざされつつもあることだらう。

 

 

然し彼は其の人類にとっての根本的課題とは異なる次元での具象的課題をこなして行ったのだとも申されませう。

 

其の根本的には解決を齎さぬことだらう課題の解決が、其の役立たずとしての具象的構築がむしろ我我の心にひとつの希望の灯を点すと云った意味でさうなのだ。

 

翻り文化芸能のことを此処で考えてみませう。

 

文化芸能、即ち藝術には何が可能でまた何が不可能であるのか。

 

 

無論のこと其れは役立たずとしての非日常の集積のことなのです。

 

なのですが其れもスポーツと同じでそんな役には立たぬことの具象的構築こそがむしろ我我の心にひとつの希望の灯を点すに至ることだらう。

 

 

また其の役立たずとしての非日常の集積としての最高位には宗教的次元がありませう。

宗教もまた飯のタネにはならずで實際に其処でもって宗教的な活動に勧誘されたりしても普通は鬱陶しいばかりでのことです。

 

ですが、其の心の安定が無ければむしろ人間は生きて行けぬ生き物なのです。

 

人間は衣食が足り住まうことに不足さえ無ければ果たして其れでもって幸せなのか?

 

結局其れだけでは幸せではあり得ぬのが人間存在としての心のあり方なのです。

 

 

むしろ其の生存の維持には関係の無いところで役立たずなことを頑張ることこそが人間にとっての最も大事な価値なのだらう。

さて、かうしてスポーツとしての価値と藝術としての価値及び宗教としての価値を十把一絡げとなし今回は論じて居ります。

 

まずは其れが本質的には役に立たぬ価値の追求であることを先に述べた訳です。

 

何故なら動物にはスポーツや藝術、さらに宗教の領域のことなどは無論のこと理解することなど出来ません。

動物、たとえば猫などには感情がありますが其れは抽象領域の価値を追い求めるやうなものなのでは無論のこと無い。

 

何せ彼等にはスポーツや藝術、さらに宗教の領域のことを理解するだけの抽象的能力が常に欠けて居るのです。

 

 

だが其処が欠けて居るからこそ抽象的に規定される勝敗や優劣、正邪と云ったヒエラルキーの構築に惑わされる必要も無い訳だ。

逆に抽象的に規定される勝敗や優劣、正邪と云ったヒエラルキーの構築こそが場合により人心をして悪の方向へと惑わすことでせう。

 

故にスポーツや藝術、さらに宗教と言った抽象的な価値はむしろ具象的に展開される場にて正常に機能されるべきものなのだらう。

 

 

松山英樹に祝福続々 青木「待ち望んだ瞬間」ジャンボ「大偉業」中嶋「袖を通させて」

 

彼松山 英樹が今回成し遂げたことは往往にして國威発揚だの、また日本人の人種としての優秀さだのそんなところへと結び付けられて仕舞うことだらう。

實際にわたくしが年老いた母に今回の彼の快挙を説明したところでは其れはかって日本が日露戦争に勝ったことと同じ位重みのあることである、と云うものでした。

 

ゴルフを知って居る人には其の位の事實としての重みが其処にはある。

 

マスターズと云う大会は其の位に他のメジャートーナメントとは異なり特別なものだ。

 

ですが、あくまで私は松山 英樹個人としてのゴルフに向き合う真摯さが其の分厚い壁をこじ開け日本人にとってのゴルフマスターへの道を切り拓いたとさう見て居る訳だ。

 

其の意味では確かに社會的な偉業でせうが、其の社會的な意義を離れたところに彼の努力の本質はありむしろ其れは役立たずなことが齎す価値其のものであると私はさう考えて居る訳だ。

 

何故なら此のやうなご時世には其の役立たずなことが齎す価値こそが人々の心に灯を点けるからなのです。

 

 

同様に此のやうなご時世に人の心を晴れ晴れとさせ価値としての灯を心中に齎すのは資本主義に於ける諸の成功やグローバルな活躍や近代主義の履行の徹底としての科学技術開発や人権思想の履行にあるのでは無くスポーツや藝術や宗教が常に人間存在に対し語りかけて居ることだらう體と心に対する豊かさへの希求のことです。

 

左様にグローバルに展開されることだらう抽象的価値は我我に対し晴れ晴れとした気持を決して与えては呉れない。

だからまさに其処の領分にて松山プロの活躍を見て居てはイケナイのではないか。

 

尚私はもう拾年近く松山プロの大ファンです。

何より彼の男らしいところが昔から好きでした。

ー其れが私自身の心性の本質とは別のところにあるが故に滅法好きである訳だー

 

現在わたくしが考えて居ることとはかうして次第に追い込まれて行くことだらう社會の価値観に対するプロテストでは無く如何にして合理的に其処から逃れるかと云うことです。

 

と言えばまさにかの鴨 長明のやうな社會からの逃避行を地で行くものですが、其の鴨 長明に限らず古来より東洋の知恵の中には其の種の厭世観がしかと組み込まれて居るものです。

 

まさに其れは表立って批判しない言外での社會への批判のやうなものなのでもまたあらう。

 

其の逃避行としての武器と申しますか持ち駒が体育であり藝術であり信仰であるとさう申して居るのです。

 

其れも社會的に規定される価値なのでは無く個として保ち得るであらうスポーツであり藝術であり宗教としての価値なのです。

 

其のうちのひとつの価値の成就をまさに今彼松山によるマスターズの勝利と云う形でもって私は感じ取って居る訳だ。

 

 

さうして足腰が弱りゴルフを止めたのに何故其れがおまえにとりそんなに大きいことなのだ?

ゴルフも石採りも左程変わらず其の本質とは運動のことです。

 

また自転車に乗り買い物へ行くのも同じ運動です。

運動は體の糧となるもので他方で藝術や宗教は心の糧となるものだ。

 

其の糧となるものこそが具象的探究としての世界にはふさわしいものだとさう述べて居るのだ。

対して地位だの名誉だの金だの👪の存続だのを追い求めて生きることとは世界の抽象的な価値の探究を行うものであるに過ぎぬことだらう。

 

故に其の種の抽象的現實をあえて捨て具象的現實としての心身にとっての癒しの世界を生きて行くと言ったところだらうか。

 

 

さうして石や庭のツツジの花などの美しいものを見、相変らず小難しい数々の本を読み、さらに松山の活躍をTVにて視て勇気付けられたりもした。

真夜中にも関わらず其の中継を全部視たのか?

 

そんな具象的探究だけは實際何処までもやりませう。

でも社會の出来事にはもはやほとんど無関心なのだ。

 

たとえ社會にどんなに余裕が無くならうと其の食べて排泄する以外での価値こそが人間には是非必要である。

まさに其れが体育ー運動ーであり藝術ー文化ーであり信仰ー宗教ーであるとさう申して居るのだ。